カテゴリー: つれづれコラム

球春。昔のコラムから

第88回選抜高校野球大会が、3月20日から始まる。
ここ10年ぐらいは、気がつけばもう決勝戦が始まってた、という具合で
なかなか観ることはないけれど、その昔、春の初めは甲子園に通うのが仕事だった。
ぼくは、25年前の新聞のコラムにこんなことを書いた。

『春を告げるセンバツ高校野球大会が開幕した。(略) むろん今年も、すでに
いろいろなドラマがあった。初出場を果たした奈良高校の4番打者益田和亮君。
6年前の日航ジャンボ機事故で、一瞬にして最愛の父を亡くした。
父和彦さん(当時49歳)は、あの忌まわしい8月12日、上司の葬儀に出席するため
上京。家族のもとへと帰る途中JAL123便に乗り合わせたのだった。
その父・和彦さんも高校時代は野球部にいた。甲子園の夢を息子・和亮君に託し、
暇があればキャッチボールをして野球の素晴らしさを教え込んだ。
「全力を尽くさないと激しく叱られました」と和亮君。
父の急死で家族が深い悲しみに沈んだ時、一番幼いその和亮君が最も強かった。
「いつまでも泣いていたら父さんが悲しむよ」。
男と男の約束は全力プレー。彼はあす、甲子園のバッターボックスに立つ。』

昨日、偶然見つけた昔のスクラップから、こうして原文を書いていて思い出した。
試合は敗れたけれど、彼は約束通り見事なヒットを放ったこと。
さて、同じこの甲子園で大活躍した渦中の清原容疑者。西武に入団して間もないころ
藤井寺球場のベンチで彼と話しをした。「久しぶりの大阪やろ。今日は実家に帰るんか?」
「いえ、今は西武が実家ですよ」
新聞社を辞めてずいぶんになる。ぼくの知ってる彼はこの時の印象のままだ。
絶対に、永久に薬物などに染まらぬように・・・。
今回のセンバツ。祈るように、はつらつとした球児のプレーを見つめたい。

大江さんとわが町・堺

前回、大江健三郎さんの『恢復(かいふく)する家族』という本に触れた。
実は、その中に我が町、堺市が登場している。
『障害者の十年』というエッセイにこうある。

『・・昨年もおしつまってからの、堺市での講演は、後者の幸いな例だった。
夏の初めだったと思う、一度電話があり、そしてこちらの応答にそくして
障害福祉課福祉係のMさんから手紙をいただいた。その文章に、障害者を
家庭に持つ人間として、共鳴したのである。』

ここからMさんの手紙が紹介され、大江さんはその問いかけに対して
思いを展開していく。
Mさんの手紙は、障害者をもつ人たちとの共生に意識を向けた時、自分たちこそ
硬直した偏狭な人間観をもっていたのではないか。それを障害のある人たちの存在に
よって逆に照射されたように思う。ということが書かれてあり、最後に、
『障害者を閉めだす社会は弱くて脆い社会と言われてきましたが「障害者の十年」の
終わりにあたって、何故弱くてもろいのか、この意味をもう一度考えてみたい』
と締められている。

真摯に障害者と向き合う姿勢を示した一通の手紙が、
ノーベル賞作家ではなく、人間大江健三郎を動かしたのだと思う。

きのう、ある保育施設の一億円にのぼる不正がニュースに取り上げられた。
こういった事件のたびにメディアは行政の管理の甘さを指摘する。
もちろん、問題となるべく下地が行政側にあるのは事実かもしれない。
また、公務員や議員の不祥事が相次いでいるのも承知の通りだ。

けれど、悪事を暴くことだけがジャーナリズムの本義ではない。
ペンを握る者にも道はいくつもあるはずだ。
ぼくは障害者や施設に、寄り添うように応援を送ってくれる
市の担当者に幾人も出会ってきた。
福祉の未来を明るくするためには、希望の種を見つけ発掘することも
ジャーナリズムの使命であるのではないか。
小規模の施設運営は、たいそうしんどいけれど、
本に描かれた大江さんと堺市職員との姿を、なんとか受け継いでいきたい。

本のちから

カトレア作業所の法人認可をお手伝いしている時期に、大江健三郎さんが書いた
一冊の本に巡り合ったのは幸運だった。
ノーベル賞受賞後に発表された『恢復(かいふく)する家族』は、
重度の障害をもつ長男・光さんと共に生きる家族の姿をえがいた
初の長編エッセイだ。本の帯には、
『父のやさしい文と母のあたたかい絵で綴る魂の記録』とあるが、
まさに、感動が静かに深く胸にしみこんでくるような作品だった。
法人設立の作業がしんどくなった時、同い年のNさんとコーヒーを飲んだ。
Nさんの長男は重度の障害があり、その彼が赤ちゃんのころから
ぼくらは交友があった。
障害者の作業所に関わっていることや、施設のことを話している折、ふと、
大江さんの本の一場面が頭によぎった。
光さんのことで家族と意見の衝突などがあって、大江さんが光さんの手をとって
家を飛び出し、デパートに行く。言うことを聞かない光さんが
父の手を振り払って雑踏の中に姿を消す。
その時父の頭によぎったこと。その後の父の生き方・・。
話すぼくの前でNさんは目にいっぱい涙を溜めていた。そしてお互い
震える声で「がんばってや」「がんばるわ」とだけ言葉を交わし別れた。
それから六年経った今、彼は作業所のぼくの机の前にいる。病気で退職した
会計事務の方に代わって、手伝いを買って出てくれたのだ。
「なんか、放っとかれへんねん」と言って。
ぼくは、あの時の喫茶店の風景を思い出す。大人の男ふたりが泣きながら
すすったコーヒーの味も。
きっと、互いの感情や利害とは別の次元に大江さんの言葉があったと思う。
良き本と出会うことは、もうひとり良き友人がそこに存在することに匹敵する。
ぼくは、それを確信している。

嘘と真実の距離

世界には多くの民話が存在する。中でもぼくが好きなのがキルギスの『賢い乙女』の話だ。
たしか、ぼくが敬愛する方の著作で読んだ記憶がある。
 
その昔、王の花嫁を選ぶためにある試験が行われ、とても難しい問題が出された。
「嘘と真実の間には、どれぐらいの距離があるのか?」
集まった多くの娘たちは答えられない。すると、一人の貧しい乙女が簡潔にこう答えた。
 
「嘘と真実の距離は、たった指四本の距離にすぎません。それは耳と目の間の距離です。
なぜなら、私たちの耳はたくさんの嘘を聞きますが、私たちの目は常に真実を見るからです」

ノンフィクションを書く者にとって、乙女の答えは仕事の根幹を成すものだ。だから取材せずにおられない。でも、どんなに話を伺い、資料をもらい、一緒にご飯を食べたり歩いても、取材相手とは一期一会の縁となることが多い。
会えばすぐお別れ。サヨナラには慣れっこだ、 と思っていた。

ところが、カトレア作業所の運営を担ってから、話を聞いてさよならとはいかなくなった。話をしていて十二年が過ぎた。利用者の誰もが、毎日違った真実をぼくの目に見せてくれるからだ。一日では絶対に見れない小さな変化と可能性。
ずっとただ寄り添ってきたからこそ、見れる真実もある。
だからぼくは、平気だったはずのサヨナラができないままでいる。

虐待について思うこと

『障害者虐待防止法』『障害者差別解消法』の施行にともない、関連セミナーや講習会が各所で行われています。先日も市の担当職員を講師に迎え、小規模法人連絡会主催の研修会があり、カトレア作業でも昨日、それを受けた職員会議を開きました。虐待についての話を討議していた折、重度障害の息子さんをもつ男性職員が、ある体験を話してくれました。

大型ショッピングセンターで、尿意を催した車いすに座る息子さんをトイレに連れて行ったおり、障害者用のトイレはあいにく使用中のサインが点灯中。仕方なく待っている間に、お漏らししてしまったそうです。息子さんは自力で立つことができないので、そのあとの大変さは言葉にできないぐらいだったはずです。さて、ランプが消えて個室の中から出てきたのは、なんと若いアベックでした。悪びれることもなく、口笛をふくがごとく平然と去っていたという。彼はそんな経験をこれまでに何度も味わってきたといいます。ぼくも、除外証がないのに障害者用の駐車スペースに平然と停めている人を見かけると、幾度か店舗にそのことを訴えてきました。心ない人のせいで、狭い車の間を大変な思いで車いすを下すお年寄りを見てから、耐えれない気もちがしたからです。これらの行為は虐待と解釈できないのだろうか。しかし、店舗の責任者は「モラルに任せるしかないので」と申し訳なさそうに対応するの精一杯だし、自治体の窓口でも、同じような答しか返ってきません。それは、ある意味しかたのないことなのです。罰するための法が制定されてないのですから。

世の中のいたるところで障害者を最優先せよと、ぼくは言っているのではありません。ただ、広い駐車場の中の、たった1台か2台分のスペース、そして大型店舗のたった一つのトイレ。そのわずかな空間ぐらいは、法の力で死守してもらいたいと願うだけです。モラルというならば、残りの広い、自由な場所で、どうぞ発揮してくださればいいではないか。

 

ファンや支持者の思いをしっかり受けよ。

元野球選手の薬物使用や人気タレントの不倫騒動、政治家の相次ぐ不祥事など、テレビをつけるとそんな話題ばかり目に映る。事件性があるかないかは、さておき、ファンや支持者の心を踏みにじる行為をしたのはみな同じ。その罪は重い。

スポーツ選手や、歌手、タレントに対してファンは、球場・劇場などなどで観覧するか、テレビを通じてのいわば一方通行の応援しかできない。彼らはその熱い声援をどれだけ受け止めていたのだろう。この人ならば、と投票箱に名前を書いってもらった支持者の気持ちをどれだけ考えたというのだろう。ファン・支持者は彼らに騙された、裏切られたと怒る。でも、どんなに怒っても、卵の一つもぶつけはしない。

『君がわたしを騙したことではなく、わたしが君をもう信じていないことが、わたしの心を揺さぶる』(ニーチェ・善悪の彼岸)

騙された側は、怒りよりも、信じるものを失った悲しみのほうが強くなるということなのかもしれない。ファンに支えられている人たちは、ファンに決してこんな切ない思いをさせてはならない。

 

 

宝のことば

先日、久しぶりに送迎車の運転をした時のこと。
中学生ぐらいの少年が、歩道から急に自転車で飛び出してきて、危うく車と接触しそうになった。
ブレーキをかけ、ぶつからずにすんだものの、相手は笑いながら去って行った。
ぼくは助手席にいた利用者の男性Tさんに、わざと大層な声で
「危ないなぁ。あんな子は叩いてやったほうがいいよね」と言った。
すると、普段からこだわりが強く、会話を交わすことが少々苦手な彼が
「だめです。叩いたらあかん」と前を見つめたまま答えた。
「なんでやのん?」と返すと、彼は当たり前だろうという顔でこう答えた。

「痛いから」。

ぼくは、これ以上の的確な回答は世の中にはないと思った。

 

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やっとです。完成するまで、時間的なことや、資金面等でずいぶん彷徨い歩きましたが、ついに公開することができました。今後ともどうかよろしくお願いいたします!(浅野)