カテゴリー: つれづれコラム

卒業式の奇跡

近隣にある堺市立原山台中学校の卒業式で、卒業生全員と担任の先生方の胸に、今年も作業所でこしらえたコサージュが咲いてくれました。だから卒業式は作業所のみんなにとっても晴れの日。これももう8年間続いている。地域福祉に最大の理解とご協力を頂いている関係者各位に心から感謝を述べたい。

思えば、近隣の人々の温かい心に、これまで随分助けていただいた。作業所の前に小さな畑があった頃、うまく作物が作れないでいると、いつのまにか土の色や、盛り方が変わっている。きっと日焼けした正義の味方が夜を徹して作業をしてくれたのだろう。いまだに、どこの誰かはわからない。

こういった善意の心に何度も触れた。だから、われわれは悪意に負けずにここまで歩いてこれた。

『人に魚を与えれば、一日で食べてしまうが、釣りを教えれば一生食べていける』とは、老子の言葉だったように思う。

いただいた善意のおかえし。それが今後の私たちの大きな仕事だ。

 

大商大堺高校に続いて、近隣の原山台中学校でもカトレア作業所のコサージュが卒業生の胸に咲きました。皆さんおめでとうございます。そして、ありがとう!

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親の会への手紙

カトレア作業所・親の会の皆様へ

2月22日に行われた大阪商業大学堺高等学校の卒業式で
作業所のコサージュが卒業生476名の胸に咲き誇りました。
同高校出身のひとりの若者が、作業所のホームページを見て
「このコサージュをぜひ」と、家庭科の先生に勧めてくれたことが
きっかけでした。

とくに今年は、障害者施設と教育機関の交流という意義を
互いに分かち合い、こちらから学校に行って、先生方に作り方を伝授、
ついには『カトレア作業所のコサージュづくり』が授業となって
生徒一人ひとりが作った花を卒業生に贈るという素敵な企画ができあがったのです。

近隣中学や支援学校も例年通り注文をいただいています。
これも、障害をもつ人とその施設を応援しようという、熱い心をもった
多くの人々のおかげです。そして作業所の仲間と親の会の協力があってこその成果です。

卒業する彼らの胸に咲いた、彼らのコサージュ。それを見たとき
冬からほんのすこし春の兆しがみえたような気がしました。

おかげさまで工賃に反映することができました。
ありがとうございました。

本年もよろしくお願い申し上げます。

さてカトレア作業所も、なんとか無事に新年を迎えることができました。
これもひとえに協力下さる多くの方のおかげです。ありがとうございます。

本年こそは、と思いつつも新年のご挨拶がこんな時期となってしまった。
あかん。あかん。反省です。

カトレア作業所の構造は、1階が作業場で2階が事務所となっていて
一日のうち、ほとんどの時間を作業場で過ごしている。
2階で事務作業を、と思っても、すぐに1階に引き寄せられてしまう。
体は大変でも、利用者といる時間に大切なことがいっぱい詰まっているからだ。
実に個性的で、似通った人は誰もいない。動きが激しく目が離せない場面もあるが
それでも十数年の歳月のなかで、心はどんどん通ってきた。
少しずつの歩みかもしれないが、後退はない。それが自慢で、生きがいだ。
とはいえ、
運営母体がしっかりしていないと沈没してしまう。
そのバランスのとり方が、僕には難しい。で、悩む。

そこで本年は、ちゃんと事務作業や、提出物の作成等をしっかりやれるよう、
2階に上がる時間を増やして、少しずつ歩んでいこうと決意した。しました。はい。
こちらも後退するわけにはいかないですから。

どうかどうか、本年もよろしくお願い申し上げます。

卒業式に行ってきました!!

作業所でこしらえたコサージュが、大阪商業大学堺高等学校卒業生505名の胸に咲いていました。
感謝と感激で胸一杯になりました。

作業所でこしらえたコサージュが、大阪商業大学堺高等学校卒業生505名の胸に咲いていました。
感謝と感激で胸一杯になりました。

見つけてくれてありがとう

網膜剥離で目の手術をしてから8年、今度はもう一方の目が網膜裂肛という敵にやられてしまった。
しばらくは目を酷使しないようにと告げながらも、作業所は休まずに通えた。
しかし、このサイトもコラムの更新もピタッと歩みが止まってしまった。
目の養生や多忙を言い訳にしながら、つまりはパソコンの前に座ることから逃げてしまっていた。
ところが、すっかり怠け者となったこの目に、突如まばゆい光が差し込んだ。
更新せずにはおられない、嬉しい出来事があった。
作業所では授産製品の手作りのコサージュを、
毎年近隣の中学校と、支援学校の卒業式に納めさせてもらっているが、
少し前、市内のある高校から「ぜひうちの学校にも」と一本の電話があった。
とくに、宣伝をしているわけでもない。
受注のある分、コツコツと細々とこしらえてきたコサージュだ。
どこでカトレア作業所のコサージュをを知ってくれたのか、不思議だった。
「うちの学校の卒業生が、カトレア作業所のホームページを見て
『このコサージュを卒業式に』と勧めたんです」と、担当の教師が話してくれた。
利用者の収入が増える喜びとともに
自ら閉ざしてしまったホームページの中の花を、見つけだしてくれた人の気持ちが心に染みた。
見知らぬ若い人が開いてくれたこのページ。
そして教え子のその言葉を受け取って
作業所まで走ってこられた教師。ほんとうにありがとうございました。
卒業の日には、花びらの一枚一枚にお祝いのエールをこめて、
私たちのコサージュを届けます。

見知らぬ人からの手紙

「拝啓、名前も知らぬあなたへ」ーーー。

水曜日の出来事を手紙にしたためて投函すると、
やがて、見知らぬ人からの手紙が届く。
不思議で温かな魅力をもった『赤崎水曜日郵便局』がきょう閉局する。

素敵なこのプロジェクトは、熊本県の水に浮かぶ小学校として知られながらも
廃校となった「赤崎小学校」の校舎で立ち上げられた。
スタッフは全国から送られてくる個人の水曜日に起きたことを記した
手紙を無作為に交換して再び送り返す。
手紙の内容は、とくべつではない一週間の真ん中の水曜日の出来事。
日常の風景や、心情を綴った手紙は3年間で6000通を超えた。
仕事のことや夫婦のこと、中には小学生からの手紙も舞い込み、
煩雑な日常の中で、一通の便りに心なごませたファンも多い。

高名な専門家の指南書や、マニュアルではなく、
名前も知らない人のささやかな日常を垣間見ることで
悩んでいたこころに一条の光が差し込むこともある。
むしろ、肩書きや立場を脱ぎ捨て、誰に語るでもなくささやいた文章のほうが、
素直に人の胸にしみこんでくるのかもしれない。

そういえば、取材という手法を通じて、よく似た経験をしたことがある。
取材相手を中心に、その家族一人ひとりと会話を重ねていくと、
最後には全員が泣いてしまう。
「お母さんは、あの時そんな思いをしていたんだ」
「お父さんは、そんなことをしてくれてたんだ」
「おまえは、そんなことをかんがえていたのだね」
これらは、取材者が”聞く”から答えるのであって、
ふだんは、自分の思いをすべて話すわけではない。
『家族なのだから当たり前』という、善意の行動に言葉はいらないかのように。

でも、取材者が尋ね、答えるうちに、行動が言葉にかわる。
そして初めて互いの思いやりの心を知る。だから、泣けてしまう。
取材の帰り、ぼくも含めた全員が、泣きはらしたあとの笑顔で「さよなら」。
いつもの場面だ。ぼくの大好きな瞬間だ。

専門学校や中学校の出前授業で、だからぼくは、日常の取材の大切さを
訴え続けてきたし、今後も頑張っていたい。

手紙に綴られた文章。対話から生まれた言葉。
ささやかな暮らしの中にひそむ愛情に、きょうは耳を傾けたい。
        
     3月31日 『赤崎水曜日郵便局』閉局の日に寄せて 

『ひとりを大切に』を思う

広島県の中学3年生の男子生徒が、誤った万引き記録によって志望校へ推薦できない
と伝えられ、三者面談の日に自殺した。あまりにも痛ましいできごとだ。
昨日の朝、詳しく報じた番組を見ながら、学校側に対する腹立たしさを超えて
涙が出てきた。

こういう問題や事件があると、ぼくは、カトレア作業所で起きた一つの出来事を
思い出す。

ある日、利用者Aさんの母親から電話があった。休みの日にAさんが一人で
外出した際に、ある施設内で迷惑行為を行い、警察に連れて行かれ、調書まで書かされた。
という内容だった。
ぼくは、電話を切るなり隣の市にあるその警察まで走った。
Aさんの障害を知るぼくは、Aさんが犯罪行為を犯す人ではないことを知っている。
障害のある人の多くは、その行動によって、誤解されがちだ。
ずっとその場で立ち続ける、人についていく、急に近づいてしゃべり出す、寝そべる、
大声を出すなど様々だ。
ぼくは、車を走らせながら考えた。もしも、Aさんがこのまま拘束される
ようなことになれば、障害のある人の多くが、その行動を理解されないまま、
犯罪者となる場合があるかもしれない。それは間違ってる。絶対に。

警察署についてぼくは、担当の警察官に会うことができた。
「Aさんの誤解を解きに来ました」というぼくに担当官は、
「では調書を確認してくれますか」とパソコンの前まで案内してくれた。
そこに書かれてあったのは、どうみても犯罪記録であった。
ぼくは、障害のあるひとの行動や、Aさんとの日常を話し、
決して犯罪や快楽を求めてのものではないと説明をした。
そして、ふたりで細かく被害の状況を分析していくと、
一般にいわれる犯罪行為とは全く違った事実が浮き彫りになった。
担当官は「たしかに犯罪にはならないですね。そういう障害があるのですね。
もっと、聞かせてください」と、真摯な態度で耳を傾けてくれた。

そして「じゃあ、これは違うなぁ」と言って、新たな調書を作成してくれた。
それは、どこからみても、犯罪のにおいがしない文章だった。

大それた会議を開き、制度を見直し、体系を作る。という順番もあろう。
しかし、ぼくは警察での出来事があって、ふと思った。
一人の人のために、一人の理解者を作ることから始めてもいいのではないか。
やがてその理解者が組織に変革をもたらしてくれるかもしれない。
果たしてそれは、甘ったれた考えなのだろうか。

いずれにしても、学校に通う子供たちの自殺や犯罪は、もう絶対食い止めなければならない。
従来の方針をぶち壊してでも、今必要となる勇気ある改革が求められている。
大人の責任は重い。